息子の絵

上は1年生の時の遠足、下は通っている幼稚園で私と娘が演奏会をした時の絵

娘の絵

小1年時の自画像。眉毛を描きたくなかったのに描けと言われて図工が嫌いになった歴史的作品。

我が家では学校から持ち帰ってきた絵を額に入れて飾っている。全部は無理だけど、「これは!」と思ったものはいつでも見える所に。

その他書道や、家で書いたもので本人が上手く書けた!と思ったものはそこいらに堂々と貼って良いことにしている。
お陰でいつも家は汚ない。。。

こんな所に掛けるなよ!笑
「感」が上手く書けたそうだ。
赤おばけ(息子作)

さて、学校の個人面談週間がやってきました。
努力型で成績も良い娘の面談は毎回褒めちぎられてサッサと終わるのだが、真逆の息子の場合はなかなかそうは問屋が卸さないのだ!毎回胃が痛い。。

今回は図工の作品について通達があった。
「他の子はこんな風に描くんですけどね、⚫︎⚫︎くん(←息子)のはコレなんです」と。

「えー!独創的で良いと思うんですが…NGですかね?」
「いやー、NGではないんですが…そうは言ってないんですけどね…」

製作中に人に何か迷惑をかけたのなら指導されて当然だが、そういうことではないらしい。

要は行き当たりバッタリで発想が乏しい、丁寧さがない、と言いたいようだ。

私としてはそれの何がダメなのかわからない。
算数や国語ならともかく、図工で熟考することは、そこまでマストなのだろうか?
考え込んだらそれはそれで「発想が乏しい、遅い」と言われる。
どっちやねん?!

彼の絵や工作は見ての通り、いつも独創的で味があり、ひと目見たらすぐ分かる。そこを私たち家族は絶賛しているのだが、学校的には受け入れられないらしい。技能の評価というカテゴリーからは外れるのだ。

でも、それでいい。
常々私は子供達に言っている。「音楽と図工は成績悪くても全然気にしなくていいよ」と。
学校の評価なんてそんなもんだ。

これは音楽にも言えることで、以前娘からこんな話があった。
「音楽の授業でハンガリー舞曲を聴いたんだけどね、先生のどんな感じに聞こえる?という質問にA君は悲しい、B君は楽しい歌といったの。そしたら先生、黒板にB君の意見だけを書いたの。授業が終わった後A君は怒っててさ、あれから彼は音楽で手を挙げたの見たことないんだよ」
「音楽に正解はないからね、と先生は言ってるけど、やっぱり先生の中で正解があるんだよねー」と。

ほーらきた。そんなもんだ。
綺麗事など子どもは見抜いている。
A君もB君も正解だ。
2人とも良い感性をしてる、と思う。

これはプロが演奏する立場であったら、この曲が作られた時の背景、それこそブラームスがどんな生活をしていて、どんな精神状態だったのかを知って演奏した方が良い。その中に正解があるかも知れないし、そこに歩み寄って大切にしなければならないだろう。それは演奏家は作曲家のメッセンジャーだからだ。

ただ聴く方はどんな風に捉えたって自由だ。
聴く時のその人の心の状態だって影響するだろう。
長調だから明るい?テンポが早いから元気?それで良いのか?
なんかおかしくないか?
天真爛漫なモーツァルトに哀しみを感じる時だって大いにあるではないか。

学校はみんな同じ方向を向いてるロボットを作りたいのだろうか?
まぁ、先生はその方が扱うの楽だもんね。


もし、同じ方向を向かせることが学校教育の課題であるならば、教師はどんなタイプの子も「向かせるテクニック」をいくつも持っているべきだろう。
それがプロというものではなかろうか?
なぜ親にクレームさながらに通達するのであろうか?
プロなら「時間がない」とか言い訳せずに「どんな子も任せてくれ」と言ってくれ。
そして「みんな違くてみんな良い」なんて思ってもいない事をシラッと言うのはやめてほしい。

これが私立の話なら「辞めて公立行きます」と言える所だが、逆なのが辛い。笑

窓際のトットちゃんのトモエ学園のような教育は現実では無理なのだろうか…
そして学校に関わる間、ここから何年も私はこの手のイライラとともに生きていくしかないのだろうか…。そのうち職員室でモンペと言われそうだ。
あぁ、憂鬱。。。


だから四角い箱、やっぱり嫌い。

(四角い箱…学校のことです。)

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